『黒板とワイン もう一つの学び場「三田の家」』

(2010年 慶應義塾大学出版会)


 「freitag/自由な日/何もない日」(初稿より)

4 三田の家ならざるもの

 不定形なものを積極的に切り出すことは断念しておいた方が無難だとしても、「これは違う」というように彫り出しておくのは構わないだろう。するとまず標的にせざるをえないのは「大学」ということになる。そもそも「インターキャンパス構築」という研究プロジェクトに位置づけられていた「三田の家」である。今の大学の有り様を分銅にして三田の家という空間を量っていくのはあながち的はずれではないだろう。

 

 近代主義的な美術館建築において、その展示室をホワイトキューブと呼ぶことがある。白い四角形。機能主義的な建築物の多くが、四角の箱を単位にして、鉄鋼とガラスとコンクリートで築かれたのと同じである。それらがインターナショナルスタイルとしてナショナルなものを超越しようとしたように、展示される作品はかつてのように教会や王宮にあって、その確たる歴史的な意味空間の中に存在するのではなく、意味作用を持たないとされる無機のホワイトキューブの中で、独自の自律した価値を展開すると考えられていた。

 独自の自律性とは、近代主義の掲げる理想であり、近代社会が進むべき方向として見いだされたものでもある。マックス・ヴェーバー。この、社会学の古典となる大人物を引き合いに出しておこう。彼によれば、近代社会とは、一つの社会がさまざまな社会空間に分かれ、それぞれ独立して自律的に動き出す世の中である。誰もが歴史の授業で習う政教分離はその一例。政治と宗教という社会空間だけではなく、経済にしろ学問にしろ芸術にしろ、あるいは彼が言うには性愛も、自律して分化していくということになる。「自然な有機的な連関」から生活のもろもろが抜け出し、「脱魔術化」され、「合理化」されていく、それが近代社会である。切り出された個々の部分は、相互に干渉せず、それぞれが独自の法則性のもとに自己制御され、細分化されるようになる。たとえば、ある芸術の価値を、その正邪を決めるのが、司教や王族ではなく、芸術協会(アカデミー)となり、アカデミーは自分たちで芸術の価値や市場や教育を管理しようと、その内にもろもろの規則や約束事を作り上げるようになる。

 こうして生まれる集団(組合)は、近代社会にあっては、官僚制と呼ばれる「合理的な生産」をめざす組織形態をとり、内に向けて専門分裂を繰り返し、細かな部署へと断片化されるようになる。それぞれの部分が自律して作動し、かつ歯車のように噛み合う姿、それが近代社会のスケッチだろう。

 

急に言葉を圧縮して、恐縮である。いま述べた内容自体に自家中毒を起こすほどの疑義はないつもりではあるけれど、それを展開させる前に、唐突な問題提起をお許し願いたい。つまり、上記のようなアカデミズムのこわばった言語を積み重ねるとき、つまり僕、社会学者、社会学の専門教育でトレーニングされた人間が、その専門用語を連ねるとき、いったい何が起きているのだろうか。それを少し考えてみたい。急転直下の話の流れではあるけれど、ロジカルな文章の接続を求められる「学術」とは一線を画して「のり」で書いてみよう。三田の家と、ことばと、からだについて思いを馳せるには、それもまたふさわしい気がする。

 問題はきっとこうだ。ことばも、からだも、そこにはないということなのだ。専門化された言語がある規則の下に接続されていくだけで、その有様は自動機械の運動に似ているともいえる。ことばを自分の口から搾り出すようなこともなければ(ちなみに研究者自身はどうかといえば、苦しみつつ言葉を紡いだり、恍惚に浸って筆を躍らせる、ということはあるのだが)、誰かに向けて、その反応を確かめるようにことばを重ねるようなこともない。見られるのは、ことばでもからだでもなく、ことばやからだを持たない著者だということになる。先の問いに答えれば、僕という存在は、専門化された世界の規則に従って行動することで、自分のことばやからだを自分から脱色していることになる。中和された著者、そんな存在へと誘われることになる。

すると生きられるこの生身の自分からの距離は極大となり、リアルな感触とは別物の抽象化され一般化された自分が登場しているということにならないだろうか。だが、言うまでもなく、この一般化された自分とは、決して「自分」ではない。

そしてもうひとつ大事なことがある。自分という生き物が一般化されてしまうと、リアルな自分から自分が遠ざかってしまうというわけだが、そもそも、その手のリアルさを求めなければ、それが取り立てて問題になるわけでもない。けれども、このリアルさの消去が何かしらの隠蔽だとすれば、話は違うだろう。生身の自分が担いでいるもろもろの特徴や特性が実際にはその人間の言葉にもろもろの影響や効果を与えているにもかかわらず、それらの特徴や特性があたかも存在しないかのように振る舞うとすれば、それはそれで、大きな問題だろう。

近代科学は、あるいはもう少し自分の専攻分野に引きつけて、近代の人間科学は、普遍的な人間像に依拠するあまり、科学する主体をも一般化してしまったといえる。科学する主体が人間としてもつだろう「人間的なるもの」を、おしなべて邪魔もの扱いし、真理への到達を妨げる敵役に仕立てあげた。そうすることで、近代科学という世界では、科学する主体は科学する機械へと押し込まれていったともいえる。科学する主体が、西欧人なのかいなか、男性なのか女性なのか、障害をもつのかいなか、異性愛なのか同性愛なのかそれ以外なのか、上流階層、中流階層、あるいは労働者階級出身なのかどうか、こんな事柄は、科学する主体の拘泥すべき特性ではなく、科学を左右するものではない、とされてきた。関係ないこととして扱われてきた。

しかし、人間が人間を相手にして、見たり聞いたり、考えたり感じたり、そんな人間的な関係をつくる場合に、どうだろう、単にないこととして無視して構わない事柄だったのだろうか。疑問である。社会学あるいは人間科学という営みは、人間が人間と出会ってしまう営みである。なかには、自然科学的な態度によって、科学する中であらわれる他者関係を人間関係ならざるものとして処理しようとする立場もある。しかしこういった立場にあって、そこで作成された科学的な産物が、ふたたび、科学する相手に差し出される場面は想像されているのだろうか。疑問である。現に、ここ数十年のあいだに少しづつ形をなしてきた、新しい人間科学のいろいろな試みは、この種の「疑問」を立脚点にしていることが多い。ジェンダースタディーズ、障害学、ゲイレズビアンスタディーズ、ポストコロニアリズム、あるいはカルチュラルスタディーズなど【これらの諸研究スタイルは狭い意味での社会学だけではなく、文芸批評、アートを含めて、およそあらゆる近代的な言説スタイルへのアンチとして評される。とりわけこれらの立場は、近代的なものに対象化されてきた客体の側からの突き上げという大事な政治的な契機でもある】、それらはどこかで、科学する主体の政治的な脱色に胡散臭さを感じている立場からの異議申し立てという側面を持っている。

 

さてさきほど、疑義はないつもりだと述べた内容それ自体に戻るとしよう。近代主義的な大学とは、二○○九年現在まさに三田キャンパスで解体中の南校舎【一九五九年に創立百年記念事業として南校舎は西校舎とともに建設された。三田キャンパス復興の最終段階にある大型建造物である。南校舎の完成にともない南側の門を正門とすることとなった。創立百五十年事業として改築される】を思い浮かべて言うなら、「グレイキューブ」ともいえるだろう。南校舎の建築が国際様式だったことを知れば、なおさらだ。大学という空間は、個別性や地域性や歴史性や社会性を中和する「普遍的」知を生み出すという壮大なポーズの蓄積ともいえる。そのポーズが非常に限定された歴史性と社会性の所産であることも忘れている空間である。

三田通りから、僕らの大学を眺めてみよう。慶應義塾を意味する「三田の丘」、その地理的な形状ゆえに、仰ぎ見ざるをえないからなのか、実際にはこの丘の上に鎮座するのは三井財閥であるにもかかわらず、妙に孤高の感ありだ。高い塀は収容所のようでもあるし、よくて城。歴史的には新参の東門が、かつての幻の門の寛容さとは全く違うたたずまいを見せる。その威圧感は、東門前の横断歩道を渡るのをやめさせるに十分だ。渡らずに、芝公園の方角に首を向けると目に飛び込む東京タワー、私にはこう映るのだが、その艶姿とは対照的である。魚藍坂方面から大学に向かえば、枝に突き刺されたカエルの死骸のように、萬來舎【これについてはキーワードを挙げておきましょう。福沢諭吉、演説と交際、社交、一九五二年、建築家谷口吉郎、彫刻家イサム・ノクチ、二○○三年、南館、建築家隈研吾。慶應義塾大学アート・センター発行 ブックレット一三号特集「記憶としての建築空間 イサム・ノグチ/谷口吉郎/慶応義塾」二○○五年が参考になります。】を突き立てる南館がみえてくる。絵葉書的には、いくつかの時代にわたる建築物を擁し、多彩さを見せる三田キャンパスだが、そこにある教室に一歩足を踏み入れれば、生身の欠如は、肌身にしみる。

色がない。艶がない。そりゃもちろん、反論はあるだろう。一流の学者の著す文章の艶といったら、それは結構、艶かしかったりする。けれどここで言う艶は、生身の痛々しさだったりもする。一般化したり抽象化したりすると消えてしまう生身の鮮度だったりする。いまどきの社会学の流行で言えば、当事者性なるものだったりする。

近代的な大学というシステムは、学問や科学の自律を求めるなかで、それら学問や科学が対象にするモノや事柄や人から一歩外に出ようとした。出る事によって見えないものを見ようとしたとも言える。だが「出る事」は出ない事だった。近代の「啓蒙」という企画のもつ大いなる逆説のひとつだ。実際には学問という大学システムに「閉じこもる事」が、さらには外野の叫びに耳を閉ざすことが「出る事」だったのである。それは当事者性を自分自身から排除することでもあった。当事者性は不偏不党の逆さま、できる限り排すべき代物と見なされてきた。当事者という存在は研究の対象であって、研究する営みそれ自体からは消去されるべきもの、そう考えられてきた。

だが、抽象化されない自分、生身のからだ、それは否応なく当事者だという事、このことを理解しなくてはならない。たとえ、研究対象である当事者とは違っても、その当事者とは当事者性をもつことになる。僕の場合、障害者が地域の中で一人で生活するという自立生活【仲間と共に著した『生の技法〜家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店 一九九○年、増補改訂版一九九五年)では、私自身が介助者として実際に障害者の生活にかかわる中でフィールドワークを約三年間行った】を研究テーマにしている。僕は「健常者」であり、障害の当事者ではないが、その僕が障害をもった人々に話を聞くとき、僕の生身のからだがそこに現前する以上、僕は障害という問題について当事者性をもっていることになる。そもそも、人に何かしらの働きをすれば、その人との当事者性を否定することはできない。こんな当たり前のことを軽視してきた学問世界は砂上の楼閣というか、砂上の楼閣という蜃気楼でしかないだろう。

 当事者であることを研究対象の人々にだけ押しつけ、その当事者に関わる(とされる)知でもって、それらの人々を集めて分類する。ときにそれら当事者にとって「あるべき社会」を空想する。社会学の歴史なんて、そんな愚の骨頂の集積である。当事者ではないという姿勢をとりつつ、当事者のことに目を向けるなどいうこと、それは成立しないのだ。目を向けたとたんに当事者との当事者性を生きなくてはならなくなるのだ。当事者との当事者性をことさらに貶めた科学という制度には思いも及ばないことだろうが、この当事者性を生きるからこそ、生きようとするからこそ、実は研究なるものの生が立ち上げられるのではないだろうか。

 「三田の家ならざるもの」、それは、僕にとっては、当事者性もなく、からだもない、そんな人間と人間の関係であり、さらにはそのような人間関係を良しとしてきた大学世界ということになる。

 

 急いで付け加えておこう。三田の家も「大学地域連携」という冠をかぶることがある。率先してかぶったりもする。そのとき、もしひとが、なにか特定の目的を見いだそうとするならそれも違う気がするのだ。先ほどまで述べていた「学術的な真理の追究」ではないにせよ、昨今なら「〜力」といったフレーズで表現される、得体の知れない理想像を追うのが三田の家ではないからである。人間力、地域力、コミュニケーション力、ほかにも掃いて捨てるほどあろう力、力、力。いままでの教室では培うことのできない、いままでの社内会議では醸成されることのない、そのように言われる「力」ども。これらの力の養成にとって、共通して指摘されることがらがある。それは「身体」である。場数をふんで、実地に体得するものとして、これらの力が語られるとき、頭だけで教科書的な知を学習するのとは違うということを言わんとして、身体が引き合いに出される。ところが、このとき、僕たちのからだが「身体化」されているのではなかろうか。日常で僕たちが、何となくだったり、重々しくだったり、軽々しくだったりして、生きているのが、この手元のからだだとすれば、何かこのからだに目標やら目的を背負わされて、堅苦しくされたのが身体ではないだろうか。そんな身体にからだが押し込まれているような気がする。三田の家にある「からだ」は違う。

 三田の家では、ダラダラしていても、みんなからだをもってそこにいる。教室や会議室では、たとえ議論白熱でも、からだは抽象化されている。三田の家は何もない空間であるが、だからこそ、からだが「そこにある」。身体とは、議論されたりされなかったりする言説や知の在り方とは異なり、すでにそこにいつでも、差し出されてしまうものである。それはつねに何かを表現しているとも言えるし、また同時に、つねに自分の内や外を経験していることでもある。匂い、音、光の強度、温度や湿度、姿勢や体調、そんなものを身体はつねに感受している。教室にある身体が、何か規律化され、つまり、特定の姿勢と集中を強いられ、感受していいものと無視していいものを切り分けて存在するのとは、かなり異なる。

三田の家の立ち上げから間もない頃のことを思い出す(日誌をどうぞ)。なるべくオープン時間を増やそうということで、休み時間があれば、三田の丘から三田の家に帰宅していた。そんなある日、たまたま、僕とゼミ生、三田の家のスタッフでもあるこの学生、ただこの二人が三田の家に居合わせることがあった。ただただそこで起きたことといえば、僕は論文の草稿に目を通し、彼女は編み物をしている、それだけだった。この何も起こらない空間が、ただそこにある、というのは、近代主義にあっては、むしろ奇跡である。あるいは、そもそも、家とはそのようなものなのか。

そういえば表題のfreitagは、ドイツ語で金曜日を意味するのだが、frei(自由な、空きの)tag(日)、「何もない一日」とも言えるかもしれない。