生きられる経験、生きられる社会学〜パフォーマティブに生きる

 

生きられる経験、生きられる感情、そういったものをどのように抱え、そしてどのように人に伝え表現するのか、あるいはまた、生や感情を生きるということ、そのことについて社会学をして、その上でその社会学を生きるということ、そんな諸々をどのように組上げていくのか、課題である。生きられる経験を取り込む、といっても、そう簡単に掬えるものでも、形を与えられるものでもないかもしれない。しかし、そう考えて悲観してしまうのは、すでにして、生きられる経験を物象化した上だからではないだろうか、とも思う。生きられているという事態は実際にはどのようなことでありえるのか。

ここでは生きられる社会学について考えてみよう。生きられる経験を対象にする社会学があったとして、もし、その社会学が生きられることなく、ただ論文や書物の形で放置されているだけなら、そこで語られている経験は、果たして生きられるものなのだろうか。むしろ死物化されてはいないだろうか。もちろん書物を介して三者(調査者、調査協力者、読者)が出会う現場がないわけではない。だがその先の「対話」となると難しい。

 

「対話」は、一定の自明化された合理的枠組みの中で勝ち負けを争う「ディベート」とは違う。自らの生(生きられた現実・経験、実存的なポジショナリティ)を背負って、つまり「学知と現実が分かれていく以前の経験的土壌」に降り立って異化しあう生成的コミュニケーションが「対話」である。そうであるからこそ、自らが変容し、視野を広げ、現実を豊かにしていく可能性がそこに生まれる。(小倉 2012:58)

 

 社会学がこのような対話である限り、それは生きられた社会学になろう。そこに表現された生きられた経験を、社会学という営みをする中で、死物としてではなく、生きられつつある経験として、生きることができる。さもなければ、社会学はつねに冷たく、いかにそれが生きられた経験を称揚しようが、そのまなざしを向けられたものは「生きられた経験」として死物化されてしまう。時を失い、抽象的な空間にはめ込まれた「生きられた経験」へと石化されてしまう。

 社会学が生きられるとき、それは小倉康嗣のいう生成的コミュニケーションが営まれているときだ。社会学することで生の全体性が壊されてしまう、それを阻止するのは当然のこと、それだけではなく、いや、むしろ、全体性が発揮される場こそ、そのような現場を作ることこそ、社会学の営みに求められているのだ。その場に立ち合うひとがすべて当事者としての生を経験し、さらに、その経験を交流させる可能性が担保される場を工夫してこそ、社会学が講壇社会学に堕すことなく、人々の実際に寄り添う人間的な営みとして復活できるのではないだろうか。そしてそこに必要なことは、近代科学の「近代性」が近代科学自身に禁じてきたものであり、たとえば、多くの社会学者に研究と教育が別建ての行為であると確信させている禁忌でもある。それこそ、社会学という現実それ自体もふくめた「現実」の成り立ち自体がもつ「パフォーマンス性」=身体性共同性現場性に他ならない。

 

 『パフォーマティブなものの美学』で演劇学者フィッシャー=リヒテはオースティンやバトラーを土台にしながら、現実構成的で自己言及的な身体化の過程であるパフォーマティブな行為の特徴を明らかにしている。そこでは自己と他者(俳優と観客)の身体的な共在や共同主体性が指摘され、さらに「生成として、経過として、変化としてしか」存在しない身体は、「完成した作品」なるものも否定するとされる。完成した作品の否定とは生成が起きている現場を離れて、その生成の記録を取り出すことの困難さを意味する。まさに現場なのだ。

 パフォーマティブであることの特徴、身体性、共同性、現場性は、こうして現代アートや舞台芸術の特性でもあるのだが、同時に、社会的行為のリアルな姿でもあるということを忘れるわけにはいかない。そして社会学という営み自体も現にパフォーマティブに行われている。

 パフォーマンスならば生で、なければ死、というわけでもない。いや、生きられなかった社会学、それすらも一つの出来事として、パフォーマティブに達成されてしまったものだということ、科学者集団のある種のパフォーマンスによって、死した社会学が実現されているということ、つまり、すべては私とあなたのパフォーマンスによって作られているということ、である。作りかえるとしたら、制度化されたパフォーマンスによって生み出される制度化された社会学とは別物を希求する、生きられる経験を切実に求める、そんな意志こそがまずは必要だろう。