ワーク・イン・プログレスとしての社会学作品――あとがきにかえて

 

 

私はすべての決定権を現場[サイト]に委ねる!

 川俣正『アートレス マイノリティとしての現代美術』

 

 生きられる経験を主題にして語ること自体を、いかに生きていくのか、いかに生きられる社会学として僕たちはそれを積極的に経験していくことができるのか。僕自身はこの文脈における回答として、社会学が出来事として生成され、そこに参加している人たちが身をもって感情とともに実演しているプロセスそのものが社会学だと言い、それこそを作品にすべきと宣言し、そのような試みをパフォーマティブ社会学と呼んでいる。

 

 パフォーマティブ社会学は、作品がその展示や公演という出来事とは独立して存在するという発想を否定するものでもあり、客観的な事実が、社会学者や読者とは別にあり得るという発想をも否定するものである。つまり、パフォーマティブとは、その場その場で、その場にいる私たちによって、相互行為の達成として、作品も現実もつくられるということでもあるのだ。私たちはパフォーマティブであることを運命づけられてもいるのだ。(岡原 2013:49

 

 この社会学の構想は、現代美術家の川俣正が自身の作品行為を「ワーク・イン・プログレス」と呼ぶものにも近い。

 

さまざまな人たちが現場で、それぞれの思いでプロジェクトに参加していく。そこからコミュニケーションが生まれ、このプロジェクトに新たな方向を示す発想のチャンスを生み出す。・・・「ワーク・イン・プログレス」は、つねに変化せざるを得ない状況の中で、変化していく方向を決定する。その要因をその場やそこにかかわる人たちの身体を通したコミュニケーションにゆだねている。(川俣2001:122

 

 川俣正は、絵画や彫刻など作者個人が制作するオブジェとしての作品ではなく、その都度の現場でそこにいる人たちとの仮設的な共同作業のプロセス自体を、ワーク・イン・プログレス・プロジェクトとして作品化している。たとえば、1997年オランダのアルクマーではアルコールやドラッグの依存症者のクリニックから運河を越えて街まで、木造の遊歩道を患者たちと共に一年以上の歳月をかけて設置するという作品を世に問うている。

 ワーク・イン・プログレス=「進行中の仕事」という一般的な意味では学問はいつでも「進行中」だ。だが、川俣の意味で理解すれば、一遍の論文や一冊の著作に限局される社会学的な研究成果という発想を捨て去るべきということになる。社会学としての作品の可能性はもっと大きく開かれるべきだろう。そうであってこそ、生きられる経験や生きられる社会学を実現できる。思うに、最近の若い研究者の果敢な試みはその可能性を一歩づつ広げている(最近のエスノグラフィーにある書法や表現法)。だがたとえば、映像社会学の成果としての映像作品、この国のアカデミズムはその映像の学位審査をするだろうか。あるいは、一冊の本と、その本をめぐる討議、どちらが社会学的であって、どちらが生きられるものでありえるのか。アートベース・リサーチやパフォーマンス・エスノグラフィーは、その場にいる人々が観客だろうが、共演者だろうが、他者という立ち位置にあってそれら作品の根幹をなし、作品それ自体はパフォーマンス性を帯びざるをない。著者が一人で閉じ込み完結させてしまう類の社会学論文とは違うのだ。論文はむしろ中間生産物と理解すべきだろう。

 オートエスノグラフィーが〈私〉に回収されずに公的なものになるのは、それがパフォーマティブだからだ。論文形式だったとしても、読者と共同で進められるワーク・イン・プログレスであるからこそ社会的な意義をもつ。

 一般性や普遍性を旗艦に掲げていた社会学という名のプロジェクトは、現代アートの動向にならえば、仮設的だったり、インスタレーションだったり、サイトスペシフィックだったりするプロジェクトへともっと開かれるべきだろう。社会学がその社会的公共的な意義を問われ、専門性の権力を批判されるなら、社会学が開かれるべき方向のひとつは少なくともここにある。

 ガーゲン/ガーゲン(2012)によれば、科学とアートの境界線にあるパフォーマティブ社会科学は、科学者共同体内に閉じられた議論ではなく、より広範囲の観衆を得て、関わりの次元も高度化させる、たとえば感情的な関与も認められるようになる。さらに、科学と社会の対話が促進され、社会がより動的に変化する可能性が、実証科学よりも大きくなると考えられる。

 もちろん、社会学がパフォーマティブな方向に全体的に展開するには、新たな制度設計など時間や手間がかかるかもしれない。しかし、現に行われている研究作業のプロセスにあって、作品外に追い出さないようにするというだけで、達成されるものもある。ポストアカデミズムとも呼びたいが、学生や調査協力者や多くの人と共同で一緒に作られる出来事は多い、それも生成の中でプロセスとして現に行われている出来事、それらを捉えかえすべきなのだ。いやむしろ、それこそを、今このときより、「新たな研究の成果」として、社会学の作品として、生きられる社会学実践として、数えたい。